『コロナウィルスの感染曲線は,フェルミ・ディラック分布』

 2021年9月10日 ~2022年6月30日
 この頃 毎日お目にかかるグラフである。 下には 最近のアメリカのグラフを Wall Street Journal から転載した。 実線は 7日平均の感染者数である。
 このグラフで 以前から気になっていることがある。
 感染が蔓延していくとき, 世の中は騒がしくなる。 どこまで これがふえていくのか?
 専門家は 時に 物凄く殖えると警告する。
 たとえば 7月28日, 東京で このまま 毎週新規感染者が 1.4 倍になると仮定するシミュレーションにより, 8月26日には 新規感染者が 1日で 1万人を超えて, 10,643 人に達するという試算が厚生労働省の専門家会合で示された (NHK, 2021/07/30)。 8月26日の新規感染者は, 実際には 4,704 人だった。
 しかし, 最近の様に 減り始めると, ふえると警告していた専門家は沈黙するようだ。 中には, なぜこんなに急に減るのか分からないと言う専門家もいる。 「増加要因がある一方で, 低下させる要因もある。 そのバランスの中で低下の方が強くなると(感染者数が)下がっていく」 という説明らしい。 天候, ワクチン, 行動変容が理由に挙げられている (朝日新聞デジタル, 9月12日)。
 だが, ペストのような酷い感染病の場合には, 明らかに急にふえて急に減る ・・・ ことは誰にでも何となく理解できる。 そういう場合のモデルがあるはず [後記] だと思ったが, 一応 自分で考えてみた。
 ここで面白いのは (下に示す 日本のグラフでも明らかなように), 増え方が急な場合には減り方も同様に急なことである。 このことは, 急増と急減が同一のメカニズムによることを示唆する。
 最も簡単なモデルは, 累積感染者数 x を時間の t の関数として
   dx/dt = c x
 とすれば, 単なる指数関数になり, 増加する一方である。 オリンピックの前には こういう予想がいくつも出た。
 実際には, 感染者数には上限 N があって,
   dx/dt = c x ( 1 − x / N )
 あるいは
   dx/dt = c x ( Nx ) / N             ・・・ (*)
 とするのが適切だろう。 ウィルスの餌になる人の数は, 感染そのものにより減っていくからだ。
 ここで 定数 N は 最終的な累積感染者数を意味する。 社会の規模 (人口), 警戒心, 防御態勢, ウィルスの感染力など様々の要因により決まるが, それらをすべて 1つの定数 N に押し込めている。 そして ウィルスから見た場合, 当初は N 人全部が "標的" として有効であるが, 感染が進行するに連れて 有効な標的の数は減っていくと考える。
 そこで この初等的微分方程式を解くのだが, 時間 t と 累積感染者数 x を共に無次元化して
   dx/dt = x (1 − x )
 とする。 これは 変数分離形なので容易に解けて, 解は
   x = 1 / (exp(−t) + 1)
 この形は, 統計力学を学んだ人なら誰でも知っている Fermi-Dirac 分布を左右にひっくり返した形である。
 新規感染者数は, これを微分して
   dx/dt = exp(t) / (exp(t)+1)2
 となる。 これらのグラフを 下に 黒線と赤線で示す。
 実は, 下に示すように このグラフは, 20 世紀初頭のインドでのペストの発生状況を非常によく記述するので, 比較のための準備として, これを
   dx/dt = sech2(t /2)
と変形しておく [sech は 双曲線関数 cosh の逆数である]。
 統計力学の場合には, フェルミ縮退が強い場合に, 赤のグラフは ほとんどデルタ関数, 黒のグラフは階段関数になる。
 感染の場合には, 物凄い疫病が これに相当する。
 このモデルから 何か役に立ちそうなことはないかと考えたのだが, 赤いグラフの変曲点が面白そうだ。
 感染が急に増えてきて, いったいどこまで増えるのか ・・・ という時に変曲点 (図の黒丸, d3x/dt3=0) に到達すると, そこから ちょうど 1.5 倍上が頂点であることをこのモデルは教える。 つまり, ピークの高さを この時点で予想することができる。
 そう思って見ると, 最初に示したアメリカのデータは, 特に直近の波で, そうなっているように見える。
 感染対策は, 変曲点より前に手を打つのが有効だろう。
 ここを過ぎると, 感染の増加が 自然に新規感染者数を減らす (ウィルスから見れば標的を減らす) 効果が大きくなる。

 下のグラフは Our World in Data から転載した日本の新規感染者数 (7日平均) の推移である。
 今回の感染波は 感染力が非常に強いために, ピークが高く 幅が狭いこと分かる。
  [なお日本のグラフは, "主として検査が限定的であるため, 確認された感染者数は 実際の感染者数より少ない" と注記されている]
 ただし, 1日当たりの感染者数は このように急減を続けるが, 死者の数は 増加を続けている。

後記
 当然と言うか こういう数理モデル (SIR モデル) の研究は 1927 年に行なわれている。
 1905~1906 年のボンベイにおけるペストの大流行のグラフは, 上と同様の形をしており, ペストの流行の発生と終息の様子を見事に記述する。
 本稿の単純なモデルは, SIR モデルで γ=0 (従って 回復者数を表す変数 R を 0) と置いた場合に相当する。
 その場合 S + I (未感染者+感染者) が一定になるので, 上の単純なモデルに帰着して, 微分方程式が解ける。
空間情報クラブから転載》
 最後に SIR モデルを説明する記事 (空間情報クラブ) に載っているインドのペストのデータと比較する。
 図の説明は読み取りにくいが,拡大して読むと次のように書かれている:
 このチャートは, 1905年12月17日から 1906年7月21日の期間にわたるボンベイ島における疫病による死者の数字に基づく。 縦軸は 1週間当たりの死者数を表し, 横軸は週単位の時間を表す。
 少なくとも 80~90% の患者が死亡したと報道されているので, 縦軸は 新規感染者数 dx/dt を時間 t の関数として表すと見ることができる。 図の実線は, 次の公式による:
    dx/dt = 590 sech2(0.2 t −3.4)
 というわけで, 100 年以上前の ボンベイのペストは, 筆者の単純な解析モデルで かなりよく 説明できることが分かった。 おそらく 感染力が強い場合には, この程度の単純なモデルで全体を把握できるのだろう。 全体の傾向だけでなく, 関数の形がほゞ一致していることが重要である。
 そこで 残る疑問は, なぜ 専門家が このようなモデルにより説明できると言わないのか?
 おそらく, "急減は 皆さんのご努力の結果" … ということにしておくのが 安全だからであろう。
 しかし, ペストのような疫病がなぜ 終息したかを推測すれば, 誰にでも分かる。
 この程度のことは, どなたか専門家が既になさっておられるはずなので, さらに検索すると, 次のプレプリントが見つかりました。
 "A Phenomenological Analysis of COVID-19"
 By A. O. Macchiavelli, G. V. Martí, J. G. Martí
 Posted May 25, 2021, medRχiv ("med-archive" と読む) プレプリント
 この論文では, 微分方程式から始めるのではなく, 大胆にも最初から 感染者の総数 N(t) が Fermi-Dirac 分布そのものに従うとして, そこから微分方程式 (*) を逆に導いています。
 
 そして, 中国のデータと比較しています。 中国は 感染も早かったが終息も早かったので, やはりこのようなグラフが当て嵌まるようです。 しかし, 日本のデータの方が遥かに一致は良い。
 未だ閲読を受けていないプレプリントであり, 医療のガイダンスとして使用されるべきではない … とすべての論文に警告がついています。 しかし, 全文が掲載されており, 誰でも読むことができます。
 ここまで 来ると, 上の日本のデータを sech² モデルと直接に比較したくなる。
 これを試みたのが下図である。 データは "Japan" と書かれているところまでである。
 この比較を始めた時点では "Japan" の高さが 10,000 だった。 それが8日でほゞ半分に減った。
 赤い線は単純な sech² 曲線である。 パラメタは, 高さと幅の2個だけであり, それ以外の自由度は無い。 つまり, 縦軸と横軸の縮尺を変えるだけで, このように一致する。 関数の形がピッタリ一致するのである。
 このグラフはもともと いびつな形をしており,第5波の裾に第4波が被っている (第4波が終わらないうちに第5波が始まった) と思われるが, これを除けば 非常によく合っている。 日本のコロナウィルスの感染データは 115 年前のインドのペストと同じように解釈できる。
 上のグラフの様子から, 新規感染者数は このまま急減を続け, 合計の感染者数 N は 170 万人程度で終息しそうである。 この数字は 日本の人口 1.25 億人の 1.36% である。
 第5波が終わる段階で SARS-CoV-2 は どんな "感想" を持つだろうか?
 他の国では 威力を発揮したこのウィルスは, 日本では 人口の 1.36% にしか寄生できなかったことに愕然としているだろうか?
 それとも 1.36% に寄生することにより, 入院できないままの死者を発生させた戦果を自慢しているだろうか?
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 [蛇足]: この頃 『(新規) 感染急減, なぜ?』 という見出しを見受けるが, それは累積感染者数 x 依然として高い水準のまま 増え続けているから, ウィルスが寄生できる "餌" の数が減って, 新規感染者数 dx/dt が減るのである。
2022/06/30
  ここまでが, 2021 年の夏に考えたことである。
こういうわかりやすいモデルで, 第5波までは 意外によくデータを説明できた (グラフの左側部分)。
 この分なら第6波も … と期待したのであるが, それは急な立ち上がりの部分までで, それ以後のデータはなんとも複雑である。少しはおとなしくなって何か考えられるかと ここまで様子を見てきたが ほとんど絶望的である。 これ以上待つのも 無意味なように思われるので,ここで作業を打ち切ることにした。
 2022 年の1月頃にはまだ データの専門家が何人も予想をしておられたが, その後 予想がどうなったのかは わからない。 というか世の中の関心が薄れてしまっている。


 
 
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