断熱過程とは
(6) 断熱過程とは,幅の広い概念である。
念のために繰り返しておこう。
[A]:系のリズムに比べてゆっくりした摂動を加えると,系は「騙されて」,摂動が掛かっていないかのように感じ,各時点における平衡位置
A(
t) の周りに同じ振幅で単振動を続ける。
実際には変化が起こっているのに,自分のリズムより変化が遅いので,変化が無いように
感じるのである。
これが,力学での「断熱過程」である。
この説明を聞いた ある学生に "だまし舟なんですね" と言われた。折り紙で「だまし舟」をこしらえて 帆のところを持たせ,目をつむってもらってビックリさせる ・・・ という子どもたちが遊ぶ「だまし舟」である。
[B]:系のリズムに比べて速い摂動を加えると,系はこれについて行くことができない。
"びっくりして" 状態を急に変える。調和振動子の例では,振幅が急に大きく変化する。
量子力学では,このような現象を「遷移 (transition)」と呼ぶ。非断熱過程と呼ぶこともあるが,却って分かりにくい。
このような例は,物理以外にも,だまし舟に限らず数多く見られる。一番わかりやすいのは,
値上げである。たとえば,バスの運賃を大幅に値上げする必要があるときにも (40 年
ほど前の石油ショックの時は,すさまじかった),運賃は急には上がらない。何回かに分けて小刻みに値上げする。バス会社は「断熱」という術語を知らないだろうが「断熱的値上げ」という概念はよく理解している。
(7) 熱が無関係なのに「断熱」とは?
ここまで来ると「断熱」という術語に強い違和感を覚える。
これについて書いたものを,これまで 本にもウェブサイトにも見たことが無い。
私はこれを学生に次のように説明していた:
物理用語は,おそらく明治の先人たちが 必死の努力でみごとな訳語を与えてくれたお蔭を我々は蒙っている。「断熱」もその1つであろうが,残念ながら 幅広い意味を持つ "adiabatic (英)" をカバーしきれていない。そういう意味では,適切な訳語とは言えない (かと言って,別案を思いつかないのが つらいところである)。
この単語 "adiabatic" は,ギリシャ語の形容詞 "
ἀδιάβατος" に由来する。
正確な理解を必要とすると思うので,専門家でもないのに ギリシャ語の講釈を少々お許しいただきたい。
これを 3つに分解すると,語頭の無気音 "
ἀ" は,(よく知られていると思うが) ギリシャ語では否定を意味する。その後に "
διά" (渡って) と動詞 "
βαίνω" (行く) がついて,全体として「 (川, 谷, 海などを) 渡ることができない」という意味になる。
今の世の中では,"大統領令" と言えば理解しやすいだろう。
注目すべきは,adiabatic が「熱」とは無縁な言葉だということである。
しかし,adiabatic の原義をこのように理解すれば, 「断熱」という術語が物理の異なる
分野で共通に使われていることは,理解しやすい。
[1] 熱力学の場合には,熱が渡ることを禁止されるのが断熱過程であり,
[2] 力学・量子力学では 系の状態が飛び移ることの無い過程が断熱過程 (したがって量子力学では,無遷移過程とも言う)であり,
[3] バス料金の値上げならば, 「バスを使うのはやめて自転車にしよう」と乗客が習慣を
急変しないように,じわじわと行なうのが「断熱的値上げ」である。
(8) 蛇 足
ここは 本当に "蛇の足" である。
「大統領令が禁止」された状態
すなわち 渡航可の状態を何と呼ぶか … という問題である。
あるいは,バス会社が値上げをしたところ,運悪く客離れが起こったような事態である。
もともと "adiabadic" の "a" は,上にも書いたように否定を意味する。これは 英語の単語にも残っており,"aperiodic (非周期的)","student apathy (五月病)","anharmonic (非調和)", "anarchism (無政府主義)","achromatic (無色)" などの例が見られる。
したがって,この場合も "渡航可" を意味する "
διαβατός" を借りて "diabatic" と呼ぶのが正調のはずであるが,
実際に物理で使われているのを見たことがない。
しかし,ウェブで検索すると "diabatic" は,"非断熱","透熱" という意味で
使われていることが分かる。
とは 言え "non-adiabatic" という
2重否定や "diathermal (透熱, 熱を通す)" の方が 普通に使われているように思う。
ということは,英語圏においても「量子力学なのに どうして 熱が?」という疑問を拭えていないらしい。